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自民党総裁選の歴史をまとめました。

 

 

 

鳩山一郎 394票
岸信介 4票
林譲治 3票
石橋湛山 2票
石井光次郎 2票
益谷秀次 2票
大野伴睦 2票
河野一郎 1票
重光葵 1票
松野鶴平 1票
池田勇人 1票

 

 

の自由民主党結党以来、初めて実施された総裁選。

 

この時は事実上、現職の内閣総理大臣である鳩山一郎の信任投票でした。

 

 

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1回目

 

岸信介 223票
石橋湛山 151票
石井光次郎 137票

 

2回目

 

石橋湛山 258票
岸信介 251票

 

 

結党以来、事実上初めて実施された本格的な総裁選です。

 

初代総裁の鳩山一郎が辞任を表明したことを受けて、石橋湛山、石井光次郎、岸信介の3名が立候補を表明。当初は岸がリードしていました。

 

しかし石橋擁立の中心人物であった三木武夫と、石井派に加担した池田勇人が総裁選前日夜に協議を行い、決選投票となった場合は三位候補は二位候補に投票する、二、三位連合が成立。

 

また池田は表向きは石井支持派でしたが、実際には石橋支持で動いており、石橋が2位に入るように、池田がわざと石橋に票を回したとも言われています。

 

第一回投票では予想通り岸が石橋に70票以上の差をつけて第一位となりましたが、過半数の票獲得には至らなかったため、岸と石橋間で決選投票となり、二、三位連合により石井支持者が石橋に投票したため、わずか7票差で石橋が総裁に当選しました。

 

 

 

岸信介 471票
松村謙三2票
石井光次郎1票
北村徳太郎1票

 

 

岸との激戦を制した石橋ですが、内閣総理大臣に就任した翌月に脳梗塞で倒れ、執務不能に。

 

そのため、に先の総裁選で争った岸信介外務大臣を内閣総理大臣臨時代理に指名、に内閣総辞職となり、その同日、岸信介が国会での首班指名により第56代内閣総理大臣に就任して第1次岸内閣が発足します。

 

この総裁選は岸が内閣総理大臣に就任したあとに実施されているため、事実上は岸に対する信任投票の意味合いが強いものでした。

 

 

 

岸信介 320票
松村謙三 166票
大野伴睦 1票
吉田茂 1票
石井光次郎 1票
益谷秀次 1票
佐藤栄作 1票

 

 

1959年に岸信介総裁の任期が満了したことを受けて行われ、岸総裁に批判的であった松村謙三が立候補しましたが岸が勝利しました。

 

 

 

1回目

 

池田勇人 246票
石井光次郎196票
藤山愛一郎49票
松村謙三 5票
大野伴睦 1票
佐藤栄作 1票

 

2回目

 

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石井光次郎194票

 

 

、岸信介総裁が安保騒動の責任をとって辞意を表明したことに伴い、行われました。

 

池田勇人、大野伴睦、石井光次郎、藤山愛一郎、松村謙三の5人が立候補の意思を表明。

 

吉田茂が池田支持を明らかにすると、大野、石井両派は、2、3位の連合戦線を結成し、池田支持対大野、石井両派の対立が激化します。

 

総裁選予定日前日の夜に事態は急展開。

 

2、3位連合の大野、石井両派でしたが、石井派は参議院議員が池田派に切り崩され、2、3位連合でも勝利の見込みが薄くなったため、13日の明け方6時半に大野が立候補を辞退。

 

大野の方が降りたのは、大野派は結束が堅く大野が降りても石井に票を集めることができましたが、石井が降りると石井派の票が池田に流れるという見通しになったためです。

 

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この時点では石井の勝利が有力と思われていましたが、産経ホールはこの日の夜、藤原義江のリサイタルが予定されていて長くは使えず、投票日が1日延期になります。

 

そしてこの一夜のうち、岸、佐藤らは池田派の体制立て直しを行い、池田支持派が一気に巻き返します。

 

特にそれまで池田派のとりまとめを佐藤一人に任せていた岸は、岸派60人を集め、もう一度再結集して池田を支持するよう説得して回りました。

 

こうして、会場を日比谷公会堂に移して池田、石井、藤山の3名による選挙が行われ、池田が歴史的な大逆転勝利を果たしたのです。

 

しかしその日の午後、首相官邸における新総裁披露宴の最中、岸はテロに見舞われ重傷を負い、後味の悪い幕切れとなってしまいました。

 

 

 

池田勇人 391票
佐藤栄作 17票
一万田尚登 6票
岸信介5票
藤山愛一郎 3票
吉田茂2票
福田赳夫 2票
高橋等1票
正力松太郎 1票

 

 

1962年に池田勇人総裁の任期満了を受けて行われました。

 

佐藤栄作、藤山愛一郎といった実力者が立候補を見送ったため、実質的に再選を目指した池田の信任投票となりました。

 

 

 

池田勇人 242票
佐藤栄作 160票
藤山愛一郎 72票
灘尾弘吉 1票

 

 

三選を期する池田勇人に対して池田の政権運営に批判的であった佐藤栄作、藤山愛一郎が挑みました。

 

この総裁選にはかつてないほどの実弾が飛び交ったといわれており、次のような隠語が生まれました。

 

「生一本」(所属している派閥の意向に従うこと)
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「サントリー」(三派閥から金をもらうこと)
「オールドパー」(あちこちの派閥から金をもらい、結局誰に投票したか不明なこと)

 

池田は過半数を上回ることわずか4票、かろうじて一回目投票での総裁3選を果たしました。

 

 

 

佐藤栄作 単独選出

 

 

池田が体調を崩して入院。喉頭癌が発見されると、池田は東京オリンピックをやりきり、閉会式の翌日10月25日に内閣総辞職を表明。

 

後継総裁には佐藤栄作、河野一郎、藤山愛一郎の3人が名乗りを上げましたが、池田は「佐藤君が後継者として妥当だ」と述べ、あらかじめ用意されていた裁定文にて空欄としていた後継総裁の氏名欄に池田自らが佐藤栄作の名前を書きました。

 

この一連の出来事は池田裁定と呼ばれています。

 

 

 

佐藤栄作 289票
藤山愛一郎 89票
前尾繁三郎 47票
灘尾弘吉 11票
野田卯一 9票
小坂善太郎 2票
岸信介1票
松村謙三 1票
村上勇1票

 

 

1966年に佐藤栄作総裁の任期満了を受けて行われた総裁選です。

 

現職総理の佐藤が圧勝しました。

 

 

 

佐藤栄作 249票
三木武夫 107票
前尾繁三郎 95票
藤山愛一郎 1票

 

 

1968年に佐藤栄作総裁の任期満了を受けて行われた総裁選です。

 

三選を目指した佐藤に対し三木武夫と前尾繁三郎が対抗馬として出馬。

 

前尾の立候補は二位に入ればポスト佐藤の有力候補として認知されるとの思惑でしたが、三木に12票差の三位という結果に終わります。

 

このことは二年後に前尾が宏池会会長の座を追われる遠因となりました。

 

 

 

佐藤栄作 353票
三木武夫 111票
千葉三郎 1票
宇都宮徳馬 1票
藤山愛一郎 1票

 

 

1970年に佐藤栄作総裁の任期満了を受けて行われた総裁選です。

 

佐藤はすでに三選しており、四選出馬か、出馬せず意中の後継候補だった福田赳夫に禅譲するかが焦点でした。

 

前年総選挙で沖縄返還合意などの成果を掲げて大勝していた佐藤が禅譲すれば誰も拒めない情勢だったため、この時点ではポスト佐藤として福田に遅れを取っていた田中角栄は福田への禅譲を避けるために動きます。

 

そこで田中を支持する川島正次郎副総裁が中間派を四選支持でまとめ、田中とともに佐藤に四選を説得、佐藤もこれに乗ることになります。

 

佐藤の四選は確実な情勢の中で、三木武夫が出馬。三木は予想以上の得票となりポスト佐藤の一角に生き残りました。

 

 

 

1回目

 

田中角栄 156票
福田赳夫 150票
大平正芳 101票
三木武夫 69票
無効 7票

 

 

2回目

 

田中角栄 282票
福田赳夫 190票
無効 4票

 

 

佐藤は沖縄返還を実現させ、福田赳夫を後継者として考えていました。

 

一方田中は、衆参両院で81人もの佐藤派の議員を引き連れ、田中派を旗揚げして対抗します。

 

さらに大平も福田に「自分は総裁選に出馬する。立候補のとりやめはない」と通告。

 

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6月30日、各紙朝刊はいっせいに田中優勢を報じ、投票前日の7月4日夜、佐藤は自ら電話をとって「福田に投票せよ」と党内各方面に檄を飛ばしました。

 

田中と福田は1・2位連合の密約を、田中と大平は2・3位連合の密約を結んでおり、もし第1回投票で福田1位・田中2位・大平3位となった場合、田中派はどちらかの密約を反故にしなければならない状況でした。

 

そんな中、第1回投票の結果は、田中156票、福田150票。わずか6票差で田中が1位になったことで、田中派は矛盾に陥ることを回避し、決選に進みます。

 

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決選投票の結果は、田中282票、福田190票で田中が新総裁に就任しました。

 

 

 

三木武夫 単独選出

 

 

1974年の参議院選挙での自民党の敗北や、田中金脈問題のスクープなどによって、田中角栄内閣総理大臣が退陣表明。

 

田中の後継総裁候補として大きく注目されていたのは大平正芳大蔵大臣と福田赳夫前大蔵大臣でした。

 

しかし総裁公選を強行すれば激戦が予想され、話し合いでの後継選出も選ばれなかった側の反発は必至で、自民党は最悪のケースとして分裂も予想されました。

 

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そして椎名は福田を推せば大平・田中の大角連合が離反する、かといって大平を推せば福田は脱党も辞さない、中曽根は若く(当時56歳)将来がある、と考えて党近代化を唱えてきた三木を推挙。

 

これは今日では椎名裁定と呼ばれ、裁定を受けた三木は「青天の霹靂だ」とつぶやいたそうです。

 

 

 

福田赳夫 単独選出

 

 

ロッキード事件発覚後、三木は疑惑を徹底的に追求しようとしますが、三木には田中への遺恨があったため、その報復ととられ、自民党内部から反発されます。

 

そして反主流6派(田中派・大平派・福田派・船田派・水田派・椎名派)が中心となって自民党議員277人で挙党体制確立協議会(挙党協)を結成し、「三木おろし」と呼ばれる倒閣運動が起こります。

 

三木は衆院解散を対抗カードにしようとするも、15閣僚は解散署名に拒否する姿勢を示し、解散を断念して任期満了選挙を選択します。

 

日本国憲法下では初の任期満了となった総選挙では、挙党協議員は自民党公認を受けながら、党本部とは別に選対本部を設置し、自民党分裂選挙の様相に。

 

総選挙で自民党は結党以来初めて過半数割れする敗北を喫し、三木内閣は責任を取って退陣します。

 

福田赳夫が、ライバル関係にあった大平正芳と「三木後はまず福田が総理、2年後に大平に譲る」という大福密約を結んでいたことにより福田が無投票で総裁に選ばれ、大平を幹事長に据えました。

 

 

 

予備選

 

大平正芳 748点
福田赳夫 638点(本戦辞退)
中曽根康弘 93点
河本敏夫 46点

 

 

福田は1977年の参院選に勝利したころから、続投への色気を見せ始め、中曽根派の引き込みと「大平外し」を始めます。

 

そして密約から2年後の1978年に福田は大平へ政権禅譲を拒否して総裁選出馬を表明したため、大福提携が崩壊。総裁選に突入します。

 

この回の総裁選からは、国会議員による選挙の前に一般党員・党友による予備選挙が行われることになっていました。

 

当初マスコミ各社は福田優勢と報道しており、福田も、国会議員のみの投票や派閥の談合では田中派の支援を受ける大平が優位だが、今回は一般投票が込みなので自分が圧倒的に優位である、と確信していました。

 

福田は本選では中曽根・河本が自身に投票するよう根回しをしつつ、「1回目の投票で100点差がついたら、2位の候補は本選を辞退すべきだ」と述べました。

 

しかし田中は秘書の早坂茂三に命じて、電話作戦用の名簿を作らせており、予備選挙が告示された日から執務室にテーブルを総動員をして、端から端まで電話リストを並べて電話作戦を開始します。

 

そして11月27日、開票結果が発表され、大平が福田に110点差をつけて大逆転での1位通過。

 

「最後まで戦うべきだ」と進言した派もあった中で、福田は「総理大臣が自分で言ったことを覆すわけにはいかない」として本選を降り、大平が当選します。

 

自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ一人です。

 

 

鈴木善幸 単独選出

 

 

ハプニング解散をうけての衆参同日選挙が行われている最中の、大平正芳首相が急逝。

 

弔い選挙のムードとなり圧勝した自民党は政治の空白の回避と政局の安定が急務であり、話し合いによる円満な後継者の選出が適当であるという考えが党内の大勢を占めていました。

 

ハプニング解散の直前まで田中派批判を繰り広げていた福田派と三木派を中心とする反主流派は、彼らの欠席による内閣不信任決議可決の責任を問われて引き続き反主流派へ。

 

この状況下で、旧大平派内でも田中派に近い鈴木善幸を、旧大平派の田中六助が後継総裁として各方面に推薦。

 

福田派に影響力をもつ岸信介がこれを支持したことから、鈴木後継への流れが固まり、の衆参両院議員総会で、西村英一副総裁の指名をうけて鈴木善幸が総裁に選出されました。

 

後に鈴木は「カネを一銭も使わないで総裁になったのは、僕がはじめてじゃないか」と述べています。

 

 

 

鈴木善幸 単独選出

 

 

鈴木の最初の任期は大平正芳の残任期間とされていたため、任期満了による総裁選で鈴木が再び無投票再選となります。

 

 

 

予備選

 

中曽根康弘 559,673票
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安倍晋太郎 80,443票(本戦辞退)
中川一郎 66,041票

 

 

鈴木が唐突に総裁選不出馬を表明。その日の夜に田中角栄は記者会見を開き、「後継者は中曽根だ。3日後の15日、両院議員総会を開いて決定する」と発表します。

 

反主流は即座に臨戦態勢に入り、河本敏夫(三木派)、安倍晋太郎(福田派)が立候補を表明。

 

そして中小派閥の中川一郎は推薦人50人の確保に手間取り、最終的に田中派から2人、名義のみを借りて揃えたことで4人が立候補したことにより、党員、党友による予備選挙を行うこととなります。

 

予備選では中曽根、河本、安倍、中川の順番となり、上位3名が本選に進みますが、河本、安倍が辞退したため、中曽根が当選。

 

影に田中角栄の影響力があったことは周知の事実であり、「田中曽根内閣」「直角内閣」などと揶揄されました。

 

 

 

中曽根康弘 単独選出

 

 

中曽根総裁の任期満了時、中曽根は高い国民支持率を背景に早くから再選への意欲を示していました。

 

一方、田中派の影響を色濃く受けていた中曽根内閣に不満を持っていた鈴木・福田・河本派ら非主流派は対抗候補擁立を模索。

 

宮澤喜一、安倍晋太郎、河本敏夫らが再選阻止の構えを見せます。

 

そんな中、鈴木は田中邸を訪れ、次期総裁公選で田中派大番頭の二階堂進を擁立することを提案します。

 

鈴木の狙いは、田中と中曽根の間を分断し、二階堂暫定政権の後に自派の宮澤を総裁にすることでした。

 

これに福田や三木武夫らも同調し、本会議の首班指名において、野党の公明党・竹入義勝委員長、民社党・佐々木良作委員長との連携・連立を視野に入れた工作もあり、四面楚歌の中で中曽根再選は危うい状況に追い込まれました。

 

しかしこの狙いは田中角栄本人の反対や党内に慎重論が広がったことで頓挫し、結局、中曽根が話し合いで自民党総裁に再選されました。

 

 

 

中曽根康弘 単独選出

 

 

二階堂擁立構想の失敗により、福田・鈴木・三木ら首相経験者を中心とする長老は発言力を失っていき、派閥の代替わりを促すことになります。

 

また鉄の結束を誇っていた田中派も最大の忠臣・二階堂が総裁公選に意欲を示したことなどから田中の支配力にも陰りが生じつつありました。

 

こうした軋轢はに竹下が創政会を旗揚げすることで爆発し、それから20日後に田中は脳梗塞で倒れ、政治の表舞台から去ったことによって田中支配は終焉を迎えます。

 

中曽根総裁の2期目の任期は本来1986年9月に満了することになっており、当時の総裁は3選が禁止されていましたが、直前の7月の衆参同日選挙で自民党が圧勝したため、その功績に報いて中曽根の3選が認められ、任期を特例として1年のみ延長することでまとまりました。

 

 

 

竹下登 単独選出

 

 

中曽根総裁の任期満了により、ポスト中曽根を選ぶことになります。

 

当初は福田派のプリンスとして名を鳴らし、1986年には派閥領袖(清和会会長)となっていた安倍が最有力と思われていました。

 

田中派の会長をしていた前副総裁の二階堂進も出馬を表明。

 

田中派からの独立を果たした竹下は一躍、党内最大派閥の長となり、出馬を表明。

 

さらに鈴木善幸から宏池会を禅譲された宮沢喜一も出馬を表明。

 

中曽根派は、渡辺美智雄が後継者として有力視されていたものの派内を掌握しきれておらず、派として後継候補を擁立することはできませんでした。

 

その後、二階堂は福田赳夫、鈴木善幸両元首相から「政局安定」を理由に自重を促され、かつ当時立候補に必要であった国会議員50人の推薦人が集まらなかったことから、告示を目前にして出馬を断念。

 

そして禅譲によって影響力を残したい中曽根は、安倍、竹下の親友関係や角福戦争の後遺症に目を付け、安竹連合による選挙の実施を阻止するため、様々な情報を出して撹乱し、総裁選挙の実施を阻止しようとします。

 

三角大福中時代の熾烈な党内抗争に辟易としていた安竹宮3人も、話し合いによる後継総裁決定を模索。

 

しかし3人の調整は最後まで折り合いがつかず、投票期限の10月19日、「候補者一本化を総裁に一任する」との報告が総裁・四役会議に出されます。

 

中曽根は調停役を引き受け、3人は候補辞退届を提出しました。

 

10月20日午前0時、中曽根は党四役を総理官邸に呼び、選考結果を伝達します。指名されたのは竹下幹事長でした。

 

中曽根は自らの延長任期中に廃案に追い込まれた「新型間接税」(消費税)の導入と、当時容体が日ごとに報道されていた昭和天皇の崩御に対応できる人物であるべきことを考慮したとされています。

 

 

 

宇野宗佑 単独選出

 

 

リクルート事件などによる支持率低下により、、竹下登は首相辞職を表明。

 

安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄らニューリーダーもリクルート事件に関与しており、自民党が定めた「1年間、もしくは次の総選挙まで党の役職を辞退する」という内規の対象になっていました。

 

党は「候補者不在の後継者選び」という事態に直面。

 

そんな中、竹下は清廉潔白、公平無私の人柄と清貧を貫いた私生活で知られていた総務会長の伊東正義を意中の人とします。

 

しかし伊東は首相を引き受ける気がありませんでした。

 

福田赳夫・坂田道太といった長老にも固辞され、河本敏夫は自身が事実上のオーナーであった三光汽船の倒産から懸念され、後藤田正晴は「私は総大将には向かない」として総裁就任を辞退。

 

辞退が相次ぐ中、竹下は熟慮の結果、外務大臣の宇野宗佑と大蔵大臣の村山達雄の2人を後継候補に絞りこみます。

 

そして宇野は総裁任期を満了した中曽根の派閥ナンバー2であり、サミットが近いことから外相というポスト上も好都合だったため、竹下はサミット出発の2日前の5月24日、伊東と会談し伊東も了承。

 

5月26日に竹下は宇野に後継総裁を打診し、翌5月27日に宇野を後継総裁に指名することを発表しました。

 

亀井静香・平沼赳夫ら自由革新連盟の若手議員が山下元利を候補として総裁選実施を求めましたが、6月2日に党大会に代わる両院議員総会で異例の起立採決で宇野宗佑を新総裁に選出することが決定しました。

 

 

 

海部俊樹 279票
林義郎120票
石原慎太郎 48票

 

 

、第15回参議院議員通常選挙で自民党が過半数を下回る大敗をし総裁の宇野宗佑が退陣を表明。宇野内閣発足からわずか2か月後に実施された総裁選です。

 

リクルート事件に関与した安倍晋太郎・宮澤喜一・渡辺美智雄といった派閥の長が立候補できない中にあって、竹下派が影響力を残せる候補が模索された結果、「時計の針を戻さず進めず」として年齢の割に当選回数が多かった元文部大臣で河本派の海部俊樹が擁立されます。

 

竹下・安倍・河本の三派連合により海部の当選は確定的でしたが、旧田中派二階堂グループの林義郎も宮澤派の支援のもと立候補。

 

他に安倍派を除名されていた亀井静香は平沼赳夫、園田博之と共に安倍派の石原慎太郎を担ぎ出しましたが推薦人集めに苦労し、48票に終わりました。

 

 

 

海部俊樹 単独選出

 

 

海部総裁の任期満了による総裁選でしたが対立候補は無く無投票で再選されました。

 

 

 

宮澤喜一 285票
渡辺美智雄 120票
三塚博87票

 

 

有力候補がリクルート事件で謹慎を強いられる中、いわば消去法で首相に就いた海部は弱小派閥の河本派出身のため党内基盤が弱く、竹下派からの支持に大きく依存していました。

 

海部政権は1990年の衆院選で与党の安定多数を確保しましたが、これをリクルート事件の「みそぎ」として各派の領袖は再び自らの政権獲得を狙うようになります。

 

海部は衆議院への小選挙区制の導入を柱とする政治改革法案の成立を目指しますが、衆議院政治改革特別委員長だった小此木彦三郎は審議日数の不足を理由に廃案にすることを提案し、与野党理事が合意。

 

それを受け、海部は党四役らとの緊急会議で衆議院解散を匂わせますが、以前から政治改革関連法に反対していた宮澤派・三塚派・渡辺派はこの発言に反発。

 

反対派の結束に孤立を恐れた竹下派親小沢勢力までも反対を表明し海部の求心力は無くなり、解散に踏み切ることが出来ず、廃案の責任を取る形で自由民主党総裁の任期満了をもって内閣総辞職を行いました。

 

海部が辞意を固めると、竹下派会長の金丸は会長代行の小沢一郎に総裁選立候補を促しますが、健康問題を理由にこれを辞退。

 

総裁選には宮澤喜一・渡辺美智雄・三塚博の三者が立候補の意思を表明し、竹下派が独自の候補を擁立するならば「三派連合」で対抗する構えでした。

 

しかし竹下派が独自の候補を立てないことがわかると一転してそれぞれ競って竹下派からの支持を求め、小沢が自分の事務所で三候補と面接(小沢面接)竹下派としての擁立候補を選定します。

 

いったんは渡辺に傾きましたが、宮沢は得意の英語による会見のパフォーマンスを行い、これが好感されて世論の支持が宮沢に集まったため、宮沢を擁立することで合意します。

 

そして10月27日、総裁選挙が実施され、竹下派の支持も受けた宮澤が総裁に選ばれました。

 

しかし投票では第4派閥の渡辺が予想を覆して120票を獲得して2位となり、「竹下派の票が流れた」ともささやかれました。

 

 

 

河野洋平 208票
渡辺美智雄 159票

 

 

第40回衆議院議員総選挙の結果、自民党は過半数を獲得できず、結党以来初めて下野します。

 

この責任を取り、宮澤喜一が辞任を表明し後任を選ぶために実施された総裁選で、当選しても総理大臣になれない初めての総裁選になりました。

 

 

 

河野洋平 単独選出

 

 

河野総裁の任期満了による総裁選です。

 

対立候補はなく、無投票で再選されました。

 

 

 

橋本龍太郎 304票
小泉純一郎 87票

 

 

非自民・非共産8党派の連立政権である細川内閣が崩壊し、日本社会党の連立離脱により少数与党での発足となった羽田内閣も在任64日で退陣。

 

政権復帰を目指した自由民主党(河野洋平総裁)は、日本社会党(村山富市委員長)・新党さきがけ(武村正義代表)と連立政権を組むことに合意します(自社さ連立政権)。

 

与党に復帰した自民党ですが、首相は社会党の村山富市であり、河野は副総理兼外務大臣にとどまっていました。

 

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また、河野が所属する宮澤派では加藤紘一が派内を橋本支持で固めたため、河野は推薦人を確保できずに出馬辞退に追い込まれました。

 

橋本の当選が確実視される中、無投票当選を防ぎたい三塚派の小泉純一郎が立候補を表明しましたが、大差で橋本が当選しました。

 

 

 

橋本龍太郎 単独選出

 

 

橋本総裁の任期満了による総裁選でしたが対立候補はなく無投票再選となりました。

 

 

 

小渕恵三 225票
梶山静六 102票
小泉純一郎 84票

 

 

自社さ連立政権を基盤に成立した村山富市から橋本龍太郎に首相が交代すると、自民党内に二つの勢力が生まれました。

 

一つは党幹事長の加藤紘一や幹事長代理の野中広務らを中心にした自社さの枠組みを重視する勢力。

 

もう一つは社民党と距離を置き、自由党党首の小沢一郎との連携による「保保連合」を志向する勢力で、保保連合派には中曽根康弘、亀井静香、梶山静六らがいました。

 

1998年7月の第18回参議院議員通常選挙で自民党が大敗すると橋本は退陣を表明し、幹事長の加藤も橋本の退陣表明とともに選挙の敗北責任を取り、ポスト橋本の資格を失いました。

 

残る有力候補は小渕派会長で外相の小渕恵三と、金融問題で積極的に政策提言を発表していた同じ小渕派の梶山にほぼ絞られます。

 

7月14日、小渕派の幹部の綿貫民輔、梶山、村岡、野中、西田司らが帝国ホテルに集結。

 

野中との打ち合わせ通り事務総長の西田は「ここは小渕さんで行こう」と口火を切り、この時点で小渕の無投票当選は動かないものと見られました。

 

翌7月15日に小渕派として小渕の擁立を正式に決める総会が設定されましたが、その直前に梶山が派閥を離脱して(佐藤信二、菅義偉も派閥を離脱)独自に総裁選に立候補し、分裂選挙となります。

 

注目度は一気に高まりましたが、勝敗の行方が分かっている戦いで党が二分するのはさけなければならないという判断により、第三の候補擁立が模索され、小泉純一郎に白羽の矢が立ちます。

 

野中は「小泉の推薦人の数が足りなければ小渕派から貸す」とさえ口にし、田中真紀子は「凡人と軍人と変人の争い」と表現しました。

 

投票は7月24日に行われ、当初の見立て通り小渕の圧勝となりました。それでも50票程度とみられた梶山は102票と3桁を超え、小泉は84票と派閥の票も固めきれず、3位に沈みました。

 

 

 

小渕恵三 350票
加藤紘一 113票
山崎拓51票

 

 

前年の1998年自由民主党総裁選挙で初当選した現職の小渕恵三は無投票再選を臨んでいました。

 

特に加藤には後継者の座を匂わせながら懐柔しましたが、加藤派を継承したばかりの加藤紘一がこれを無視し、盟友で山崎派会長の山崎拓とともに出馬し、選挙が実施されます。

 

加藤はすでに将来の総裁の有力候補と目されており、ポスト小渕をアピールする場と考えただけで、落選は織り込み済みでした。

 

結果は想定通り小渕が勝利しましたが、小渕は自らに歯向かった加藤を許さず、直後の人事で加藤派を徹底的に冷遇し、翌年の加藤の乱につながります。

 

他方、清和会(森派)は会長である森喜朗が幹事長として小渕を支える立場だったこともあり早々に出馬を見送って派として小渕を支持し、過去2回の総裁選に出馬していた小泉純一郎もそれに従いました。

 

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そして「加藤の乱」では森を派閥会長として支えていた小泉が乱の鎮圧にあたり、結果的に翌年自ら首相の座を得ることになりました。

 

 

 

森喜朗 単独選出

 

 

4月2日に小渕恵三首相が脳梗塞で倒れて緊急入院となり、その日のうちに青木、森、村上、野中、亀井の五人がホテルニューオータニで会合。

 

首相臨時代理の設置や後継問題が動き出します。そして翌日も五人が同ホテルに集まり、青木官房長官が内閣総理大臣臨時代理、後継首相は森喜朗と決定。

 

会談中、「あんたがやればいいじゃないか」との村上の発言により、決まったとのことです。

 

深夜の会談により決まったことで、密室人事だという批判も起こりました。

 

 

 

小泉純一郎 298票
橋本龍太郎 155票
麻生太郎 31票
亀井静香 地方票開票後に辞退

 

 

世論調査では支持率8%、不支持率82%まで達するほど不人気の森内閣。

 

内閣不信任決議が出され、これは否決されたものの、森は9月に予定される自民党総裁選を繰り上げて実施するとの考えを示すことで事実上の退陣表明し内閣総辞職を行います。

 

森は古賀に「地方の票をもっと増やしてほしい。」とお願いし、古賀は「総裁の命令ですからやります。」と言って、都道府県連の持ち票を1票から3票に増やします。

 

その結果、「古い自民党をぶっ壊して政治経済の構造改革を行う」と小泉旋風を巻き起こした小泉純一郎が選出されました。

 

 

 

小泉純一郎 単独選出

 

 

小泉は元々は森総裁の残任期間だけの任期だったため、党大会に代わる両院議員総会において改めて小泉純一郎の再任が決定されました。

 

 

 

小泉純一郎 399票
亀井静香 139票
藤井孝男 65票
高村正彦 54票

 

 

小泉純一郎総裁の任期満了に伴って行われた総裁選挙です。この選挙で選出された総裁から任期が2年から3年に延長されました。

 

約2年間半の小泉政権の実績が評価され、小泉が圧勝。

 

当時自民党最大派閥の橋本派は、青木幹雄ら小泉再選を支持するグループと野中広務ら藤井孝男を擁立するグループとの分裂選挙となり弱体化を印象づけます。

 

橋本派の会長代理である村岡兼造が自派の藤井孝男ではなく森派の小泉純一郎を支持したことに、野中広務は「(村岡氏は)毒まんじゅうを食らったのではないか」と発言。

 

村岡は「私は毒まんじゅうなんか食べてない。食べたら死にます」と強く否定しましたが、この発言は話題になり、「毒まんじゅう」が2003年第20回「流行語大賞」の年間大賞を受賞しました。

 

 

 

安倍晋三 464票
麻生太郎 136票
谷垣禎一 102票

 

 

小泉は、当選挙の1年以上前から「2006年の任期満了をもって総理総裁を退任する」と公言しており、ポスト小泉がメディアで取り沙汰されます。

 

有力候補として麻生太郎、谷垣禎一、福田康夫、安倍晋三の4名の名前が挙がり、「麻垣康三」という4名の苗字名前から1字ずつ取った言葉が森喜朗に名づけられ、以降頻繁に用いられました。

 

当初から当時内閣官房長官を務めていた安倍が有力とみられており、対抗に福田と言われていました。

 

安倍と福田は同じ森派出身であり、その森派はかつて安倍・福田の父親が領袖である派閥であったことも注目され、安倍と福田が立候補をすれば安福戦争となり、第一派閥である森派分裂も心配されました。

 

しかし、福田が不出馬を宣言すると福田支持の陣営からは失望の声が上がり、雪崩的に安倍支持となり、安倍の圧勝となります。

 

 

 

AI AF Micro-Nikkor 60mm f/2.8D
麻生太郎 197票

 

 

に行われた第21回参議院議員通常選挙において、自民党は歴史的大敗を喫し、参議院第1党と参議院議長の座を民主党に譲ります。

 

安倍は9月10日に召集された第168回国会において所信表明演説を行い、重ねて首相続投への意欲を見せましたが、その2日後の9月12日に突然の辞意表明を行いました。

 

メディアなどではさまざまな有力人物が取りざたされ、前回総裁選で立候補辞退した額賀福志郎(津島派)がもっとも早く立候補の意思を表明。

 

小泉チルドレンらは前総裁の小泉純一郎(無派閥)へ再登板を求めて「小泉総理の再登板を実現する有志の会」を立ち上げるなどの運動を行いましたが、小泉本人は出馬を完全に否定します。

 

当初は麻生有利で進んでいましたが、いわゆる「麻生クーデター説」が流れ、選挙後に全くのデマであったことが明らかとなるも、「反麻生」への動きが党内に出始めました。

 

そして9月13日には元官房長官の福田康夫(町村派)が出馬の意向を示します。

 

福田は古賀誠(古賀派)、山崎拓(山崎派)、谷垣禎一(谷垣派)など、政治姿勢の近しいとされる派閥の領袖たちと次々と会談して支持を取り付けたほか、津島派でも額賀が福田との会談後に自身の出馬断念と福田支持を表明。

 

その後、伊吹派、高村派、二階派も福田支持の流れに乗り、小泉も「福田さんも小泉政権を支えてくれた人」と福田支持の意向を持っており、小泉チルドレンが多く所属する新しい風(武部グループ)も福田支持を打ち出すことになり、麻生包囲網と呼ばれる構図ができあがりました。

 

そんな中、「勝ち馬」に乗っかって大臣・党役員ポストを狙って主流派入りを目論む各派閥、議員の姿勢に対する不信感が世論で高まった上に、麻生も演説が上手かったので世論から好感を持たれました。

 

総裁選当日には、自民党本部前に集まった数百人の男女が麻生コールをするなど、麻生人気の片鱗を見せ、麻生は下馬評を覆し、197票を獲得すると言う予想以上の善戦を見せました。

 

 

 

麻生太郎 351票
与謝野馨 66票
小池百合子 46票
石原伸晃 37票
石破茂25票

 

 

福田内閣の支持率低迷を受けて、連立与党の公明党から福田おろしの動きが始まり、福田は9月1日の記者会見で退陣表明を行います。

 

9月2日に、麻生は党役員会後の記者会見でいちはやく立候補を表明。

 

党内では反麻生の立候補者を擁立する動きが起こり、5日に石破茂、8日に与謝野馨と小池百合子、9日に石原伸晃と次々に立候補を表明します。

 

また、山本一太と棚橋泰文も出馬の意向を示していましたが、推薦人が集まらずに立候補を断念しました。

 

立候補者数は1972年に立候補制となって以降、最多の人数となり、小池は女性で初めての自民党総裁選立候補者になります。

 

最大派閥の町村派は、自派出身の首相が4代続いている上に、2代連続の「政権投げ出し」との批判を受けたこともあり、派閥単位の支援は行いませんでした。

 

中川秀直らはこれに反発し、自派閥の候補である小池を支援する動きを見せ、元首相の小泉純一郎も小池を支持する旨表明したのに対し、派閥領袖の町村信孝や元首相の安倍晋三は、麻生支持に回りました。

 

前回まで麻生と対立していた選対委員長の古賀誠は、一転して麻生を支持する旨表明し、最終的には下馬評通り麻生が1回目の投票で決着をつける圧勝となりました。

 

 

 

谷垣禎一 300票
河野太郎 144票
西村康稔 54票

 

 

第45回衆議院議員総選挙の大幅過半数割れの責任を負う形で麻生が辞任したため行われた総裁選です。

 

麻生の辞任により、3代続けて任期途中での総裁辞任となりますが、今回は任期満了間際での辞任となるため、総裁選執行までは総裁は空席となり、新総裁の任期は2012年9月までの3年間となりました。

 

野党に転落しており、総裁になっても総理大臣になれないことなどから舛添要一、小池百合子、石原伸晃、石破茂ら有力候補も不出馬を表明。

 

告示日が3日後に迫った9月15日に谷垣禎一が立候補を正式表明し、9月17日には河野太郎、西村康稔が相次いで出馬を表明したため最終的には3人での争いになり、谷垣が勝利しました。

 

 

 

1回目

 

Nikon AF-S NIKKOR 50mm F1.8G
石破茂199票
町村信孝 34票
石原伸晃 96票
林芳正27票

 

 

2回目

 

安倍晋三 108票
石破茂89票

 

 

谷垣禎一の任期満了に伴い行われた総裁選挙です。

 

与党民主党への支持は低迷しており、近い将来に行われる次期総選挙での政権交代が有力視される中での総裁選となったため、「次期首相」候補を選ぶ総裁選となりました。

 

最初は再選に強い意欲を見せる現職の谷垣を軸とする戦いになるかと思われましたが、幹事長である石原伸晃が立候補の意向を示したため、現職執行部内での対立を避けるべく調整が行われます。

 

そして谷垣の出身派閥である宏池会会長の古賀誠が谷垣再選を支持しない方針を示すと共に、党の重鎮である森喜朗・青木幹雄が相次いで石原支持を表明したことで結局谷垣は不出馬を表明します。

 

9月14日の告示までに立候補を届け出たのは、石原の他、元首相・総裁の安倍晋三、前政調会長の石破茂、元内閣官房長官の町村信孝、政調会長代理の林芳正の計5人で、この時点では石原と地方票を取れる石破を最有力とする見方が多く、「石・石対決」などと言われていました。

 

安倍は所属する清和政策研究会(町村派)会長の町村が総裁選への意欲を見せていたこともあり、町村本人や森から立候補を自重するように要請されていましたが、その意に反する形で総裁選挙に立候補し、町村もそのまま立候補したため、派閥分裂選挙となります。

 

安倍は派閥の枠組みを超えて安倍の返り咲きを願う議員たちに加え、為公会(麻生派)と番町政策研究所(高村派)が組む形で安倍の支持を決定したため、これが安倍支持派の中核となりました。

 

林は1972年の推薦人制度導入後初の参議院議員からの出馬となり、所属する宏池会の古賀が谷垣不支持を決めたことにより、次世代での総裁候補としての飛躍も睨んだ立候補となりました。

 

最終的には石破・石原・安倍の3者を軸とした争いとなり、地方票で優勢な石破が1位となることは有力視されていたものの過半数には届かない見込みであったため、2位争い、及びその後の決選投票まで睨んで各陣営は投票直前まで熾烈な争いを繰り広げました。

 

投票の結果、地方票では石破、議員票では石原が最も多くの票を集め、合計では石破が1位、安倍が2位となり決選投票に持ち込まれ、議員票のみで行われた決選投票で安倍が逆転勝利。

 

決選投票での逆転劇となったのは1956年12月自由民主党総裁選挙以来の出来事でした。

 

なお1956年12月の総裁選挙で石橋湛山に逆転負けをした岸信介は安倍の祖父にあたります。

 

 

 

安倍晋三 単独選出

 

 

安倍総裁の任期満了による総裁選でしたが対立候補はなく無投票再選となりました。

 

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なお前党総務会長の野田聖子が出馬に意欲を見せましたが、20人の推薦人を集めることができず、告示日に出馬断念を表明しました。

 

 

 

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安倍総裁の任期満了による総裁選です。

 

1974年の椎名裁定の際に総裁連続3選を禁止する規定が改訂され、連続3期まで可能とされたので、現職の安倍の立候補が可能となりました。

 

前回無投票だったこともあり、安倍は異例である閣内からの出馬を容認し、前回出馬を断念した総務大臣の野田聖子が出馬の意欲を示しましたが、推薦人を集められず立候補を断念し安倍の支持に回りました。

 

閣外からは、石破茂が出馬の意欲を示し、最終的には1対1の構図となりました。

 

公示されてからは安倍の出身派閥である細田派と麻生派、総裁任期を延ばす党則改正を主導した二階俊博幹事長率いる二階派の3派が早々に安倍支持を表明。

 

岸田派では若手を中心に岸田文雄政調会長の出馬を求める主戦論が優勢である一方、ベテランなど一部に今回は首相支持に回り3年後に首相からの「禅譲」を狙うべきだとする慎重論があり、最終的に7月24日に岸田が自身の立候補見送りと安倍への支持を表明します。

 

竹下派は派内に影響力を持つ青木幹雄元参院議員会長の要請もあり、派閥会長の竹下亘総務会長が石破支持を表明。参院側は大半が石破支持で固まります。

 

一方、衆院側は会長代行の茂木敏充経済再生担当相など安倍に近い議員が多く、安倍支持が優勢を占める分裂選挙となりました。

 

石原派は会長の石原伸晃が安倍、岸田両者と近い一方、派閥最高顧問の山崎拓元副総裁が「反安倍」を鮮明に打ち出し、石破にエールを送るなどしていていましたが、最終的に安倍支持で固まりました。

 

結果はダブルスコアの差をつけて安倍が圧勝。三選を果たしました。

 

石破は議員票では大敗したものの、党員票では約45%を得て、前回同様「地方に強い」ことをアピールし、ポスト安倍として望みをつないだと評されました。

 

 

 

菅義偉377
岸田文雄 89
石破茂68

 

 

に現職の内閣総理大臣・自由民主党総裁である安倍晋三が自身の持病である潰瘍性大腸炎の再発を理由として辞任の意向を表明したことに伴う総裁選です。

 

政治空白を避けるため今回の選挙は党員投票は行わず、国会議員票(衆参両院議長を含めない)394票と都道府県代表票141票の計535票で行うこととなります。

 

安倍政権下での「ポスト安倍」への期待を問う世論調査では、安倍晋三首相への批判を繰り返す石破茂元幹事長がトップを走っており、これを警戒する安倍や安倍の盟友の麻生太郎副総理兼財務大臣(麻生派会長)は早くから岸田文雄政務調査会長(岸田派会長)への禅譲を模索していました。

 

しかし、岸田の指導力を疑問視する声が党内で強まり、二階俊博幹事長は6月以降、菅義偉内閣官房長官に対し、「安倍さんの次はあんたしかない。総裁選に出たら応援する」と立候補を促していました。

 

8月29日、菅が森山裕国会対策委員長(石原派)に二階との会談を依頼し、菅、二階、森山と二階側近の林幹雄幹事長代理の4人で極秘に会談を行います。

 

この中で二階は菅に立候補の意欲を確認し、30日午前には二階派が菅支援の方針を固め、菅が立候補するとの情報が瞬く間に広がり、無派閥や竹下派でも菅支援の動きが加速しました。

 

麻生は岸田派と同じ宏池会系であることから岸田の支援を模索していましたが、岸田が麻生と因縁のある古賀誠元幹事長を会合に招いたことや、安倍が後継指名しなかったことを踏まえ、31日に菅支持に切り替えました。

 

細田派も同日、菅を支持し、9月1日には石原派も菅支持を正式決定。この時点で菅がリードする「1強2弱」の構図が確定しました。

 

結果は7派閥のうち5派閥の支持を受けた菅が535票中、7割に当たる377票を獲得し、圧勝。

 

都道府県連票でも菅がトップの89票で、過去に挑戦した総裁選では地方票で強さを見せた石破は42票と伸び悩みました。

 

岸田は国会議員票で善戦し、石破との2位争いを制します。

 

岸田の善戦には安倍政権批判の急先鋒だった石破の次への芽を摘むため、細田派や麻生派から20票程度が流れてきたと推測されています。

 

 

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